2006年04月08日

手賀沼の主

 夜明けが早くなると、春という気がしますが、特にそう感じるのが桜の開花です。各地で桜の咲く名所がありますが、手賀沼もその一つです。
 手賀沼は、現在ウナギが年1トンあまりとれますが、昔は今よりも多くのウナギが取れたといわれます。そんなウナギが祟ったという話も残っています。

 昔、ある漁師が手賀沼で、三貫目(11.25キログラム)もある大きなうなぎを釣り上げました。普通のウナギの大きさを考えればまさに怪物といえます。結局、買い手がつかぬまま、ウナギは死んでしまいました。そこで供養のために塚をたてました。塚が立つというのは変わらないのですが、釣り上げた漁師が亡くなってしまう場合や、主が人間にばける伝承のものもあります。

 ところが、もう一つ手賀沼の主の伝承があります。
 昔、阿比古の里に若い僧侶が来て、人々の尊崇を集めましたが、誰も食事姿を見たことがありませんでした。ある時、「我が孫や子よ、健やかなれ」という文字を残し、白い牡牛と共に姿を消してしまいました。それから「阿比古」を「我孫子」と書くようになったというのですが、その牛が手賀沼の主だったというのです。


 牛が主などいいますと奇妙で、どちらかといえば竜や蛇という感じだと思いますよね。ところが、全国の水辺に、牛に関わる伝承が残っています。


雌滝と呼ばれる深淵で、六左衛門という男が鮎を獲ろうとしたところ、水が大いに逆巻き、淵の中から大きな黄牛が現れ、吽々と吼えて襲ってきた。六衛門は淵から上がり宿に帰ったが、急に発熱しうわ言を言い出して、3日後に死んでしまった。深淵から牛が出るのは奇妙だが、淵の主霊だったのだろう。
 

牛を連れてこの辺りを通ると、牛が自ら淵の中に入ってしまうという。あるいは水牛のようなものがいて、しばしば現れるという。


牛が出ていって、池のそばに行った。そこで別の牛と格闘していたが、心配になった馬の主は角に油を塗ってやった。翌日牛をつけていくと、池の中から出てきたものが角の油で滑った。その正体は河童であった。


安家川の淵には、夜、牛が出てきて草を食う。あるとき、その牛が金の鶏に変じて飛んでいった。また、淵の中に木の枝があるので見ていると、枝が頭を持ち上げた。よく見ると牛であった。


あと有名なところでは牛鬼がいますね。こうしたものはなんなのでしょうか。それはまた次回に。
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2006年01月10日

狐と神楽のイメージ

 船橋大神宮で行われる十二座神楽には『天狐舞』があります。
 天狐舞は主に五穀豊穣を祈るものです。耕す動作を真似たものが中心で見ていると確かにそう思わせます。狐はお稲荷さま、稲の精霊の御使いですからもっともな事です。さらに狐に天をつけることで、神様の使いであるのをしめしているのです。その姿は、面を始め、衣装も白を貴重とした清らかさを感じるものです。 

十二座神楽には含まれませんが、狐が登場する神楽はいくつかあります。狐が玉で遊んでいると神様がそれを取り上げようとする『狐退治』。一族を猟師に捕らえられた狐が、説得しようと人に化けて説教をするものの、最後はエサにつられて正体を現す『狐釣り』などです。

そんな狐釣りに似た妖怪の話か伝わっています。甲斐の夢山の麓に弥作という猟師がいました。弥作の為に仲間を失った狐は、彼の伯父である宝塔寺の白蔵主という住職の姿になって、弥作の罠を買い取りました。金を使い果たした弥作は金を無心しに宝塔寺に出かけます。古狐は先回りをして本物の住職を殺し、再び白蔵主を装って弥作を追い返しました。その後五十年もの間住職を演じていましたがある時気付かれて犬にかみ殺されました。
 ところが白蔵主と同じ名で呼ばれる狐の話が大阪にもあり、また違う展開を見せます。
こちらは狐であるのがばれたのですが、人間の白蔵主も同様に説いた為、甥は猟師を辞めたといいます。

 同じような話の流れながら結果が違った2つの話。これが狐に対する人間の態度をしめしているといえます。

  同じ流れながら結果が違った2つの話。これは狐に対する人間のゆらぎといえます。


 そのせいか妖狐といわれる狐の妖怪には様々な名が与えられています。(この分け方は自分なりに思うもので公式なものではありません。)


野狐。これは自然にあって、人を化かすもの。泥団子をご馳走され、肥溜め風呂に入れるいたずらもの。

 

白狐 野狐の一族とも思われますが、強い霊力を持っており、時には縁を結び、子をなします。阿部清明の母葛の葉の話や、女化け神社の狐がこれに類していますね。

天狐(神狐) 白狐とも重なり、神楽にも登場する神の使いの狐。豊かさの象徴といえる。

仙狐 中国の話でよくでてくる狐です。概ね文化的で、いい身形をして人間の家を訪ね、素直に一部屋を貸すなら家主に助力してくれます。貸さないと祟るのが問題です。

 ちなみに中国の狐の話を読みますと、狐が人と縁を結ぶ理由が明らかになっています。大抵の妖狐は狐の神や仙人である仙狐や天狐になろうとしています。その為には膨大の量の気がいります。しかし狐は陰陽でいう陰の獣ですので、単独では陽の気が集まらないのです。そこで人間から生気を奪うのです。

 魅了する能力や、気を奪う力。それは妖狐には必須な能力といえます。しかしそれが過ぎると国をも傾けます。そう、妖狐の中でも有名な金毛九尾の狐です。

 玉藻前という女が、その才知と美貌から、鳥羽院のお気に入りとなった。ある夜、風が吹き、殿の灯りという灯りは一切途絶えた。その時、玉藻前の体は不思議な輝きを放ち、光は天地に満ちたという。しかし鳥羽院は病に倒れた。王道が乱れる中、陰陽師安倍泰成が玉藻前の正体を探り出す。玉藻の正体が狐であった。玉藻は天竺では班足太子に多くの首をとらせ、中国では周と殷で美姫に姿を変え王国を傾けた大妖狐であった。帝の命を受けた上総介、三浦之介は、逃げた妖狐を追い、那須野ヶ原で射殺した。しかしその念は途絶えず殺生石となり、毒気を出し人々の生命を奪った。後々、玄翁和尚によって割られ人が死ぬのは納まったのだが、それは小さな災厄を巻くことになった。殺生石の欠片を踏むと悪い事が起きるといい、また殺生石を砕いた時、オオサキやクダギツネといった妖怪が飛び出していったともいう。

 ざっと玉藻前こと九尾の狐と殺生石の説明をしてみました。ちなみに九尾といいつつ、二尾と九尾の伝承があります。二尾は猫又のように年経た生き物が妖力をもった証でしょう。九尾は中国の山海経という本にも人を食べる九尾の狐の記述があります。

 これらの話が初めて記録されるのは15世紀というから室町時代です。その頃に都で様々な狐の物語や、中国のお話がまとめられたのでしょう。伝説がまとめられ脚色され、現在のような壮大な物語となったのです。そして物語が伝播すると、あわせる形で過去も改変されていったのではないでしょうか。

 ちなみに京都にも殺生石があります。
  怪異・妖怪伝承データベースによりますと、http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/6140022.shtml

 京都の橘づしと室町通りの交差した東に、那須野の殺生石の片割れと伝えられている石がある。その石の上に鳥が止まると、必ず死んでしまうというので、厳重に垣をめぐらして立ち入り禁止にしている。
 
 とあるので、今度京都にいったときに探してみようと思ったのですが、調べてみると真如堂にある鎌倉地蔵が殺生石から作られたようなのですが、実は他にもあるのでしょうか。
 何かご存知の方いらっしゃいますか?
posted by 九十九屋さんた at 19:06| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

妖怪古今録はじめに 妖怪に関しての自分の考えまとめ

妖怪古今録 はじめに

このコーナーで扱っている妖怪とはなんなのでしょうか?

 自分は生まれて初めて接した『妖怪』は、囲炉裏で祖母から語られる昔話などではなく、早朝再放送していた白黒の『ゲゲゲの鬼太郎』でした。
 自分と同じく、妖怪のイメージは、水木しげるさんの影響が大きいと思います。

 水木さんの描かれる妖怪には、
@ 江戸時代の絵師が描いた化けもの 『泥田坊』 『輪入道』 『飛縁魔』
A 伝説や伝承 『魍魎』 『一反木綿』 『水虎』 
B 創作 『鬼太郎』 『ねこ娘』 『ねずみ男』
 など多様な存在があります。
 しかし、鬼太郎ワールドという世界観の中では、で妖怪の多くは人格をもっており、独立したキャラクターとして描かれています。このようにキャラクターとして成立したものが、今の一般的な妖怪像だと思うのですがどうでしょう。
 ちなみにこうした時代に合わせて、古いものをいろいろな見方で描きなおすのは、水木さんだけではなく、古今東西行われていた事です。

 例えば、江戸時代の絵師鳥山石燕が中国のものを描きました。また、『道成寺』など様々な伝説が歌舞伎など表現の様式に合わせて新たに解釈され人気を博しました。シェークスピアは神話や伝承から取り出した妖精で『真夏の夜の夢』という世界を描きました。現在では、多くのゲームに登場する様々な怪物が、世界各地、あるいは様々な創作の中から取り込まれています。


 キャラクターである妖怪は、非常に分かりやすく、親しみが持てるものです。では辞書にはどうあるでしょうか。大辞林によりますと、
『日常の経験や理解を超えた不思議な存在や現象。山姥・天狗・一つ目小僧・海坊主・河童・雪女など。ばけもの。』
 となっています。
 ということで、もともと妖怪とは、怪奇現象のようなものから、ちょっと変わった話も含んでいるのです。

 
 そのような妖怪はどう誕生するのでしょうか。
 『桜村の狐は人を化かす』という話があります。
 桜村は狐が多く、お山にあるお寺を御参りした帰り狐に騙されて御土産をとられてしまった。夜道でいい匂いがしてお店に入っていい気分で過ごしていて、朝になれば肥溜めの中の朝を迎えた。
 これは不思議な話ですし、狐も登場しますから妖怪の話として伝わります。
『桜村の狐は人を化かす』と聞いた子供は、そのことを昔話として語ります。桜村は桜町になり桜市になり狐も、お姉さん方もいなくなりました。でも狐の話は残り続けるのです。
 ちなみに桜村周辺は所謂歓楽街で、お姉さんが袖を引くような場所でした。それを見越してお山への祈願には男だけで行くのが慣わしになっている程でした。
 こんな事が背景にあると考えると、最初に感じたような妖怪話と思えますか?
 実はお姉さん方に騙されたお父さん連中が、狐に騙されたといいわけしていたなんて考えてしまいませんか。
 でも桜村の狐の話がどれもいいわけだったのか、本当に狐に化かされたのか誰にも分からないのです。

 実はこの本当か分からないところこそは妖怪なのではないでしょうか。だから、あの妖怪の話はウソだとか、いや作り物だとか、いろいろいうのはちょっと野暮なんじゃないかと思います。
 
 
posted by 九十九屋さんた at 18:11| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月13日

松戸の獅子舞(獅子神楽)

 松戸の風早神社、胡録神社などで、9月〜10月にかけて三匹獅子舞が行われます。獅子舞というとお正月に活躍するイメージですが、みなさんはいかがでしょうか。
 松戸の獅子舞は、獅子は大獅子、小獅子、雌獅子となっています。被るのは神に供えたしし(鹿)の頭を模したとされているものです。江戸時代、伊勢神楽系の獅子舞が関東に広がりました。これは伊勢地方にあった御頭神事という祓い獅子があり、これが人集めの手段の一つとして、お札を配る人たちに取り入れられました。これが江戸開府の際に関東に渡ってきたのです。松戸の獅子舞も江戸時代に始まったといいますから、その流れに乗ったものかもしれません。
 獅子舞の源流は二つのものが考えられます。「伎楽系」、こちらは中国から伝わったとされるもので、二人組で行われるものはこちらが源流といわれています。もともと獅子が実在しない中国を経由したので、竜や麒麟のような架空の存在めいています。「風流系」、鹿や、猪、熊、といった田畑を荒らす生き物を、倒して食して後、祭るものがありました恐らく現在、江刺市で行われている鹿踊りのようなものだったのでしょう。
 簡単に獅子舞といっていますが、いくつか種類があります。舞う獅子の数は1〜3体、中で操る人の数は1〜2人、外見はよく知られている獅子以外に鹿や、猪、熊、さらには竜や麒麟の姿の場所もあります。行われる理由も、五穀豊穣、雨乞い、悪魔祓いと様々です。細部にいろいろな変化があり、まったく同じものはないのです。

 現在、上映されている妖怪大戦争の中でも獅子舞が鍵の一つとなっています。そこでは麒麟が獅子の代わりに舞う「麒麟獅子舞」を見ることができます。これは、慶安3年(1650)に鳥取の初代藩主・池田光仲が、徳川家康を祭った日光東照宮の御神霊を鳥取に勧請し、鳥取東照宮を建立したさいに、権現祭の神幸行列で行われたのがはじまりとされています。この麒麟獅子は頭に一本の角をつけており、胴体は鮮やかな赤に、黒の幅広い背筋が一本、尾の付け根まで通っています。また、先導するあやし役の猩猩も赤一色の非常に鮮やかなものとなっております。
 映画の中で、猩猩に選ばれ麒麟送子といわれるヒーロとなり、主人公は冒険の旅に赴くのです。

 他にも獅子舞には様々な生き物がシンボルとして登場します。

 まず、名の由来である獅子とはどんな生き物でしょう?。獅子は、力強く、至上の動物であり、眼の眩むような光をまとう太陽の象徴です。こうしたことから、インドで祭儀の際に、獅子を模した踊りが行われました。それが中国に伝わります。もともと獅子がいない国ですから、いろいろな話が加わります。日本に来た頃にはすっかり神獣のようになっていました。その神獣振りの一つとして、文殊菩薩が乗り物にしています。秋の祭りは収穫を祝ったものが多いですから太陽の象徴が絡むのも当然かもしれません。

  竜はもともと吉兆とされるいきものです。中国のもっとも古い国といわれる殷(商)でも竜が尊ばれました。海や湖沼、水のある所には天帝に命じられて竜王がいるという中国の伝承と、日本固有の信仰であるヌシの要素が混じって、多くの伝説を残しています。その姿は、頭はラクダに、角は鹿に、目は兎に、首は蛇に、腹は蜃(竜の一種鹿のように分かれた角があり、長い首から背筋に沿って鬣がはえており、全身は鱗に覆われ、四本の手足がある)、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎に、耳は馬に似ているといわれました。また古いイメージでは、馬の顔に蛇の身体や、人頭蛇身といった事もありました。(竜に関してはこちらにもまとめてあります



  秋は実りの季節。獅子舞や、神楽が各地の神社で奉納されます。みなさんも足を運んでみてください。新しい発見があるかもしれないです。


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2005年08月09日

斬られ地蔵 盆踊りの怪異

  暑い日々が続いていますが、みなさんいかがおすごしでしょう。
  夏のイベントの一つと言えば、盆踊りですね。今でこそ観光資源に使われ、知らない人が踊っているのを見ることがありますが、昔はその地域の人たちだけが参加する行事でした。地域の若者の出会いの場であったのでよそ者の来訪はあまり好まれなかったのです。


  そのためか松戸の本福寺にはこんな話が伝わっています。
  盆踊りが行われていました。若者たちが、自分をアピールする夜です。その輪の中に一人の大男が入ってきました。娘たちの目は大男に集まっていきます。そう大男の踊りはこの世のものとは思えないすばらしいものだったのです。気が収まらないのは男たちです。妬いた若者の一人が怒りにまかせて刀で切りかかかりました。大男は悲鳴を上げてその場で消えてしまいました。 翌朝、寺内の石地蔵の胸に、刀の傷跡があるのを知った若者は驚き、地にひれ伏してあやまったということです。

  さて、お盆は盂蘭盆会という仏教の行事が元になっています。盂蘭盆会は、サンスクリット語のウランバナの音写であり、もともとはさかさまに吊り下げられた、非常に辛い状況を指します。それが何を指すかといえば、六道でいう餓鬼道や地獄に当たります。ここにいる亡者の苦しみを少しでも楽にするための行事がお盆の始まりなのです。さて、お盆は年一回なので、それ以外の時期、地獄や餓鬼道で苦しんでいる亡者を救うとされているのが、地蔵菩薩です。賽の河原で幼子を救うのは知られていますね。しかし、地蔵菩薩の救う範囲は六道全てなので、そこには人界も含まれています。本福寺にきたのも何か理由があったのか知れません。
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2005年07月05日

八千代の権現さま

  太田道潅は権現山に陣を張り、米本城を攻めていた。足軽を用いた突撃戦法を得手とし、東の地にその人ありといわれた道灌ではあったが、この戦は苦戦であった。彼は神仏を敬う男でもあり、この戦にも守り本尊を持参していた。道灌は長引く戦いに、十一面観音菩薩に勝利を祈願した。祈願には供物が必要である。そして戦いは道灌の勝利に終わった。それから時は流れ、百年あまりが過ぎた。権現山の中で獣の鳴声が響いた。周りの村人もその日だけのことそう思った。だが、鳴声は十七日にも及んだ。さすがに常とは異なると村人たちが来た前に現れたのは一匹の白狐であった。
「我は飯綱大権現なり。昔、太田道潅の埋めた十一面観音の尊像が権現山の北東五尺の地下にあり、この世に再誕させれば、あまねく一切衆生を済度してくれる」。そして白狐の姿は消え、村人たちが掘り出したのが、道灌が祈願の際に供物として埋めていったものであった。
  それが後に八千代の権現さまこと、飯綱神社となりました。権現さまというのは、もともと仏様が分かりやすい姿をとって、現れることをいいます。飯綱神社のお稲荷さまとしての姿は、仏様が人々に分かりやすい姿をとっているという事です。社殿裏には観音堂があり、そこに観音様は祭られていました。ところが仏さまは、明治時代の廃仏毀釈によって姿を消しました。今、祀られている神様は、お稲荷さま、すなわち宇賀之御魂命です。宇賀之御魂命は食べ物をつかさどるといわれる神様ですが、お稲荷さまとしての姿は非常に混沌としています。 お稲荷さんを皆さんはご存知ですよね。農家や商売をされていると家にあることもありますし、ないとしても近所を巡れば少なくないと思います。では、お稲荷さんはどんな神様なのでしょう。

  お稲荷さんは神様としては、豊受大神や、宇賀之御魂命、御饌津神といった名前を持ちますが、稲にかかわる神という点では共通しています。つまりは稲の精霊の神様ですね。そんな神様が稲荷と呼ばれるのは「稲成り」あるいは「稲生り」で、その神の腹から稲が生じたという伝説からです。どうして狐かというと、古来狐をケツと呼びました。名前の一つであるミケツノカミ(御饌津神)を三狐神と読みました。そこから狐は、御稲荷様の御使いと呼ばれたのです。こちらは主に神道系のお稲荷さんです。ただし、狐はもともと山の神の使いとされていました。
  八千代の権現さまは神様を残しましたが、逆に仏さまを残したお稲荷さんもあります。そちらも狐がかかわってきます。狐(インドでは山犬)に乗った姿をした仏さまであるダキニ天を本尊とするものです。その代表的なものが長野にある飯綱大権現です。
  さて、飯綱という妖怪がいます。人に憑く類のもので、狐憑きに似ています。もともと管狐といわれる竹の管に入ってしまうくらい小さな狐を操る呪術が存在しており、用いる行者を飯綱使いと呼びました。何かあってはぐれてしまったものが飯綱と呼ばれるのです。その名前の由来は先程の長野の飯綱大権現です。
  このように八千代の権現さまには、狐を通して集まったいろいろな要素が、合わさり、混じりながら、今でも少しづつ残っているのです。
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2005年05月10日

妖怪なお菓子

 妖怪なお菓子というものがある。
 ちなみに自分がここでいっているのは食玩としての妖怪がついているものではなく、そのまま『妖怪』を食すものである。


 水木しげるさんの妖怪関連グッズに関しては、第一である妖怪 妖怪舎 http://www.10000sale.com/kitaro/ さんでは、いろいろな食べる妖怪を扱っているが、サンシャインで行われたイベントの際に食べてみた。いろいろ。
 目玉おやじの棒付きキャンディー http://www.10000sale.com/kitaro/cgi/item_view.cgi?no=95483706810748 なんか子供の時食べたら間違いなくトラウマになると思う。大人である自分が食べているうちにおやじさんが溶けて、赤いものになっていくのは正直怖かった。その際に一緒にぬりかべジャーキとかあったんだけどなくなってしまったね。
 自分的には鬼太郎かまぼこと、ひとだまのてんぷらをぜひお願いしたいところです。

ところで、一般の人々を対象とした妖怪お菓子コンテストというのがあったのをご存知だろうか?
http://www.infosakyu.ne.jp/t-bussan/sinchaku/kitarou/kitaroukasi.htm
 (OH!大水木しげる展)に協賛する形で鳥取で行われたこの企画。ずいぶんいろいろなお菓子が出ていたのだが、あまり騒がれなかったような気がする。

 それで本題。というかここを紹介したいだけだったんですが(笑)

はなむらさき不定期便
http://blog.goo.ne.jp/hanamurasaki1103/c/0a2eba2a5af0004a910182a05a1da263

 この油すましいろいろ商標権にひっかかりそうなくらいいいできですよ。
 ちなみに第二段のネタを探してさるそうなんで、みんなでお願いしましょう。
posted by 九十九屋さんた at 20:27| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月05日

藪知らずの由来

 藪知らずは江戸時代名を広く知られるようになります。名をはせ始めた理由は、前回の黄門さまのお話が、錦絵として流布したためです。しかし、そこには藪知らずの由来については語られていません。それは何なのでしょう。実はいくつか説あります。

 ヤマトタケル。ヤマトタケルが陣所にしていた為、立ち入りを禁じた。千葉は松戸や、海神といったヤマトタケル関連の地名がありますからおかしくはないですね。

 古墳・墓所。死者の眠る場所だから出入り禁止になっていた。これはなんとなく納得できますね。

 平将門。将門の陣に対して藪知らずが鬼門になっていたため、入らないようにされた。将門の影武者であった人形たちが埋められているから。将門と対峙していた貞盛が、八門遁甲を用いて、ここに死門を作ってしまった。これらはどうも物語のような気がしますね。

 飛び地。藪知らずがあるのは八幡だが、所有しているのが行徳であった為、地元の人の侵入を許されずに荒れるに任されていた。これは江戸時代によく言われたものですね。

 八幡宮。近くにある八幡宮を整備する際に仮の宮を置いたところだから。あるいは八幡宮で行われていた放生会の跡。放生会というのは、捕獲された生類を山河池水に放ちその生命を救う法会。人間の滅罪・功徳になると言うもので、八幡宮の本宮である宇佐ではじまったともいわれ、関連の深いものです。簡単に言うと八幡宮の敷地であったということですね。

 このようにいろいろで定説がありません。しかし、古い伝説の上に新しい宗教の聖所が存在するのは珍しい事ではありません。藪知らずはそんな変遷の歴史が残り続けた場所といえるのではないでしょうか。
posted by 九十九屋さんた at 19:49| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月12日

黄門さま藪知らずに挑む

前回のお話で水戸黄門を取り上げましたが、実は結構な武人なのです。水戸家といえば徳川本家で何かあったら、将軍職を継ぐ御三家の一つですから当然といえば当然なのですが。イメージとしてはテレビの水戸黄門に置き換えられてしまっていますね。放映以前に作られた映画では類人猿や大蛇と戦っていますから、温厚な好々爺というのは実は最近のものなのです。
 そうしたイメージがあるせいか、黄門さまは、市川の藪知らずに伝説を残しています。
 藪知らずは、市川の町中に残る鬱蒼とした森で、入ってはならず、中に入ると出られずに迷って死ぬといいます。ところが黄門さまは「そんな馬鹿なことはあるわけはないと」と思われ、入っていってしまいました。何もなければ迷信で終わったのでしょうが、噂通り迷いました。そうして立ち往生していると品のいい女性が現れます。「ここは無闇には入ってはならぬ。うぬが、徳に免じて今日のところは帰してやろう。だが、努々忘れるでないぞ。次はないということを」
 出てきた黄門さまは青い顔で「凡人は足を踏み入れてはならない。お前達は決してここに入ってはならないぞ」と告げたといいます。恐らく、その時誰もが最初からそういっているだろと思った事でしょう。
 また、その女性の由来と思われる伝説も残っています。藪知らずの中から時折機を織る音が聞こえてくるというのです。また、その機を織る道具は近所の農家に借りにくることがあり、帰された道具には血がついていることもあったといいます。
 そこで印籠を授かったとか、将軍家に絵巻物を送ったとか、そういう話が残っていればおもしろいんですけど、そんなことはありません。
 では、藪知らずがこうなった理由は何なのでしょう。いくつも説があり、どれもなかなかおもしろいですので、それはいずれまた。
posted by 九十九屋さんた at 08:35| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月10日

葵の影に妖あり

 ある夜の事、男が根木内の池にきた。池は七頭の大蛇が出て、将軍家所縁の者に退治されたという。そんな池なので釣りをするものもなく、池には魚が多かった。釣り始めれば魚は簡単にとれ、怯えも欲に負けていった。気付けば魚篭は満杯になっている。戻ろう。そう思った時、池の方で何かが動いたように思えた。池の中、お堂が見えた。そこは蛇を祭っているという。聞こえてきた。ありえない声が。男は叫びを上げ、逃げ出していた。気付けば魚篭の中に魚は一匹もいない。「黄門め、余計なものを作りやがって」と男は苦々しげに呟いた。
  黄門は光圀に、太閤は秀吉にといわれるように、黄門とは水戸光圀の事です。現在、根木内の七面神社の辺りには池がありました。釣り好きな黄門様が池で釣りをしていると、蛇が出てきて足をなめました。仕えていた武士は蛇を無礼討ちしてしまいます。その夜の事です。池から水柱があがったと思うと大蛇が現れ、黄門さまに襲い掛かります。「よくもわが子を」という声を聞きながら黄門さまは冷静に火攻めを指示します。油をまかれ、火矢を射掛けられ、蛇は焼き殺されてしまいました。殺したものの黄門さまは哀れに思われて、親子の蛇を一つの壷にいれてお堂を建てて祭ったのです。池はその後、おいてけ堀となったようで、魚をとると、堂が異音を発したといいます。
  黄門さまは諸国を漫遊した印象がありますが、お話の事で、ほとんど自分の領内と江戸近辺を行き来していただけといいます。ところが松戸には水戸街道がありますから、本当に立ち寄られたのです。その為、黄門さまはいくつか伝説を残しているのですが、それは何れまた。

posted by 九十九屋さんた at 06:25| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月18日

白娘子-変容していく物語-

SS 白娘子 白娘子は人となった姿を見ながら大きく息を吐いた。
 西王母さまの蟠桃園で、仙桃を盗み食いして神通力を得てからこんなに気もそぞろになったのは初めてだった。
 雨の一滴に身を変えて、降りしきる大雨の中、地上にまで降りてきた。ここで神通力に気付かれれば天界のものに気付かれるかもしれない。
 峨嵋山連環洞での修行で、神通力に磨きが掛かったとはいえ、斉天大聖孫悟空のように天将や、天兵の相手をするほどの力はない。
 それでも人界にいかなくてはならなかった。そう、桂枝の為にも。彼が人界に落ちて、ただの凡胎となり、貧しく苦労しているのは自分の為なのだ。だからこそ自分は地上に赴いて彼を助けなくてはならない。
 このまま、こっそり人界に入ってしまえば、誰も追ってはこないはずだ。 
 峨嵋山を降りていく。もし神通力を使ってしまえば見つかってしまう。険峻な山を下っていく。草木が手に絡み、傷をつける。それでも、痛みが増せば、あの人にそれだけ近づいている気がした。
 峻烈な山が終わり、空が姿を見せる。空には天の川が、ゆらいと空を渡っているのが見える。
 そうあの天の川にかかる橋で、桂枝を見た。そして桂枝も私を見てくれた。思いは眼差しで伝わった。でもそれは許されないことだった。
 自分は天界に幽閉を命じられ、桂枝羅漢はその力を失い、許仙という人となった。
「待ちなさい」
 そこに立つのは黒で身を固めた一人の仙女だった。黒風仙とよばれる彼女は姉弟子であった。
「桂枝羅漢はもう人間です。あなたのことなど覚えていないでしょう。それなのにどうしてくだるというのですか。彼が、その因果を越え、戻るのを待ちなさい。私たちにはそれだけの時間があるのです。彼の名は許されれば仙(遷)れるということなのですよ」
「師姉、ごめんなさい。もう、あの人が痛苦の中過ごすのが耐えられないの。確かに私たちから見ればほんの短い間。でも、人間には生まれてから死ぬまで。それまでに、あの人が成れなければ、もう次はないでしょう」
「行くのですね」
「はい」
 黒風仙は小さく息を吐いた。
「師妹、よくお聞きなさい。あなたが水滴に変化した雨の中を探すのと同じくらい、桂枝羅漢が誰に生まれ変わっているか探すのは大変な事よ」
「それは」
 考えていなかった。といえば嘘になる。でも、地上まで来てしまえば何とかなると思っていたのは本当だ。
「彼は思い出を失っている。でもね、決して拭いきれないものもあるのよ。だから、探しなさい。あなたが、天界で見たのと同じような風景を。そうすればきっと彼は見つかるから」
「どうして助言を」
「私たち仙人は、情を捨てることで仙人になる。でも、あなた方のような精怪は、自然の精気を集めて神通力を得る。だから、あなたのような思いを私を抱くことはないわ。でも、世にあるものならあなたのように振舞うのが正しいのでしょう」
「師姉」
 白娘子は手を握り締めた。自分はあの人を思うあまり、何も見えなくなっている。もし、このまま人界に紛れれば、この姉弟子とももう会うことはないのだ。
「行きなさい白娘子」
 白娘子は頷くと、天ではなく暗い俗界を目指してくだっていった。
 

物語の流れ
 明の時代、初許仙という青年が白素貞という娘と愛しあい、いっしょに薬屋を営んだ。商売は繁盛したが、人の嫉妬を買い、金山寺の住職の法海に訴え出た。法海は許仙に、俗世を捨てて出家するよう勧めたが、許仙はその勧めを拒絶して白素貞と結婚した。というのが白娘子の物語の原形になったといわれています。
 それが物語に変化していきます。蛇の化身である白娘子という娘が、俗人である許仙を愛し、結婚したが、法海という和尚に妨害され、仲を引き裂かれたというのが大まかな流れです。日本だと割合僧は力づく、あるいは法力でどうにかしますが、法海は計略を用いて蛇である白娘子の正体を暴き、許仙をだまして金山寺に連れて行きます。当然、そんな事をされ、怒った白娘子は、金山寺に行き、法海に夫を返してくれるよう求めます。そう書くと何かちょっとした喧嘩に過ぎないようですが、違います。白娘子の侍女である青々は金山寺近くの西湖の水眷の主です。そう金山寺の回りは水に包まれるのです。対抗する法海も今までと違います。神兵を呼び出し、水眷と戦わせます。結果、白娘子と青々は破れてしまい、雷峯塔という塔に閉じ込められてしまいます。いつごろから様々なオプションがつき、白娘子は孫悟空ばりに仙桃を食べて、仙人として修行していたり、許仙が阿弥陀仏の弟子である羅漢になったりしましたが、基本は変わりません。
 さて、このパターンと似たものがありますね。上田秋成によって『蛇精の淫』です。
 ある男の人が雨宿りをしている女の人に傘を貸し、いつしか相思相愛になります。二人は婚礼をあげますが、彼女の周りで奇異な事が起こります。ある知り合った和尚が女の身から出る妖気に気付き、呪文を唱えると実は白蛇だった。白蛇はその侍女の青々(青蛇)ごと鉄塔に封印されてしまいました。
 さて、この2つをいい感じに組み合わせた物語が、『雷峯塔物語』 作田中貢太郎 として青空文庫で見ることができます。
 雷峯塔物語では、そうでもありませんが、京劇の白娘子は恋のあまりに一途に振る舞い、愛らしいです。SSの方はそんな風にイメージしたのですがいかがだったでしょうか。


物語の変化 
 歌は世に連れ、世は歌に連れといいますが、物語もその性質を持っています。そう、白娘子はまさにその見本といえます。
 さて、変化の様子を見て見ましょう。
 青々は捕らえられていないバージョンもあります。ここでは青々はその後、修行をし、鉄塔を打ち倒し、見事白娘子を救い出します。
 あるいは、白娘子と許仙の子供が、成人して修行をし、鉄塔を打ち壊し、助けるというバージョンも存在しています。
 これらは2つとも、最初の物語にはなかったことですね。
 しかし、そこで問題になるものいます。そう白娘子を封印した法海和尚です。きっと彼は敵対者として青々や、白娘子の子の障害となると思われるでしょう。しかし、そうはならなかったのです。
 白娘子が封印された事に関して、蘇州、杭州一帯の民衆は次々に白娘子の味方をしました。白娘子はもともとの話と同じく、薬屋を営んでいました。彼女は仙人として修行もしていますから、人間が作った薬とは比べ物にならない薬効があったのです。この知らせが玉皇大帝のところまで届き、彼はただちに太白金星を下界に派遣し調査させた。 とはいうものの、天界と人界では時間の流れが違うのでそこそこかかってしまったようですが。太白金星は神兵神将を率い、下界に降り法海和尚を捕らえようとしました、ところが法海は逃げたのです。追われ、陽澄湖の付近までたどり着いたとき、もう逃げ場がなくなりました。切羽詰ったなか浅瀬の岩の隙間にガニを見つけると法海和尚は蟹の甲羅の隙間にもぐりこみ、蟹の甲羅の中に隠れてしまったのです。「 本来なら雷に打たせて殺すところだが、見たところ悔い改める気持ちもあるようだ。多少なりとも活路を残してやろう。今後おまえは自らの本分を守り、蟹の甲羅の中で修行を積み、悟りを開け!」 とある意味、殺されるより辛い事に法海はなってしまったのです。蟹の中から出る事を許されなくなったのす。実際の法海和尚は歴史上、仏教文化に貢献をした僧侶なのですがふんだりけったりですね。ちなみに今でもその法海和尚を蟹の中に見ることができるそうなので、一度見て見たいものです。
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2005年01月08日

おびしゃー狙うは陰か陽か?ー

 あけましておめでとうございます。

 1〜2月、東葛の各地でおびしゃが行われます。おびしゃというのは柏市船戸や、船橋の子神社、他にも何箇所かで行われる行事で、流鏑馬が走って馬で射るのにたいして、平地で人間が歩いて射つものをそういいます。もともと歩射祭が変化して、おびしゃになったといわれています。場所によっては鬼射と表記するところもありますが、この辺りでは平仮名表記が多いですね。


 さて射抜く的になっているものを見ると、陰と陽なのです。とはいってもインヤンじゃありませんよ。イメージ的なものです。


  陰は鬼射の言葉通り鬼です。弓で鬼といいますと節分の元になった追儺を思い出しますね。これは大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。舎人の鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追い回すものです。大舎人長が方相氏の役を務めます。方相氏というのは、黄金四つ目の仮面を被り、玄衣朱裳を着し、手に矛・楯を執った姿で正直化け物っぽいです。何となくこれを見て蚩尤を思いしません。周の儀礼書に従うとこれは蚩尤の姿たしいです。これを大儺といい、紺の布衣に緋の抹額を着けて大儺に従って駆け回る童子を小儺とよぶそうです。つまりは追いかける大儺小儺ですね。殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼をもって追ったといわれています。近世、民間では節分の行事となったといいますから、2月におびしゃが行われるのも関係あるのかもしれません。

  では陽はなんでしょうか。そうカラスです。ただのカラスをではありません。よく見ると足が三本なのです。
  三本足のカラスと聞いて思い出される方も多いと思いますが、日本サッカーの象徴ヤタガラスです。このヤタガラス、八咫烏と書き大きなカラスといったものですが、神武天皇が東征した際に、道を案内した霊鳥と言われており、信仰の対象です。
  しかし、三本足のカラスにはもう一つ由来があります。中国において三本足の烏は、太陽を象徴し、金烏と呼ばれました。ちなみに三本の足は太陽黒点の象徴と言われています。豊作を祈る行事に、豊穣をもたらす太陽の象徴を射抜くとはどういうことなのでしょうか。

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  おびしゃが始まったと思われる平安時代日本は亜熱帯気候だったといいます。そんな気候の時、太陽が盛んになるとどんな影響があるでしょう。そう旱魃が増えるのです。
  平安時代は様々な宗教が混濁とした陰陽道が広がった時代でもあります。中国の神話に、太古の時代、太陽がいくつもあり、弓の名神が打ち落として一つにしたという伝承があります。おびしゃもそれに倣って、象徴である金烏を撃つことで、太陽が盛んになり過ぎるのを防ぎ、豊作を願ったものの後なのではないでしょうか。
  ただ、残念な事に現代では弓を射る事は少なくなっているようです。ただ、その前後に行われる行事は昔の形を留めているところが多いですから、もし近所でやられているところがありましたら、見てみてはいかがでしょうか。


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2004年12月07日

片葉の弁天さま

 八千代市の村上には阿蘇沼片葉葭厳島神社があります。

 片葉という言葉がある時、大抵そこには伝説が残っています。例えば小野小町の袖が触れた時に葉が落ち、そのままはえなくなった。羽柴秀吉が鎌の切れ味を試しているうちに片葉になった。河童が人に助けてもらった恩返しに、安全な水辺には片葉の葦をはやしたなど様々です。凄惨なものもあり、戦の最中、川の浅いところを知ったものが恩賞欲しさに仲間を殺した後、その祟りで葦が片葉しか生えなくなったというものもあります。
 では、厳島神社にはどんな話が伝わっているでしょうか。平安時代、平入道真円という男がおりました。当時力をつけ始めた平の一族で、ある日の事狩猟をしていました。阿蘇沼で狩猟をしていた真円は一羽の鴛を打ち落とします。家に戻った真円が食べるために軒先に鴛を吊るしているうちに、日は暮れました。夜、真円が眠っていると枕元に美しい女が現れました。夢か現かと思っていると、「あなたは私の夫を殺しました」。身に覚えがない真円は「そんなことはない」と応じます。朝になり、昨夜の事が夢かと思っている真円は、軒先で昨日射止めた鴛と、対であろう鴦が自分の嘴で胸を突き破って死んでいました。鴛鴦の恋慕に、発心した真円は出家し、池の辺に鴨鴛寺正覚院を建て菩提を弔いました。ところが阿蘇沼にはそれ以来片葉の葦が生えるようになりました。哀れんだ村人が建立したのが片葉の弁財天こと阿蘇沼片葉葭厳島神社なのです。
 同じタイプの話は各地にあって、狂言の求塚もそれを元ネタにしているようです。真円の役柄も、千葉胤政、三原弾正時勝といった武士、鷹匠、猟師など様々に変わります。殺生をするものの多くがなるのは根源が仏教関係の説話だからなのでしょう。
 さて、もう一つ。葦を何と読まれました? 『あし』でしょうか『よし』でしょうか。その読み方によって、同じ片葉でも、その土地の受け取り方の違いを感じることができると思います。もしどこかで片葉の葦を見つけたら、確認してみてください。

 今回調べていた思ったのですが、阿蘇沼である。阿蘇という地名はアイヌ語で爆裂火口の底、湖水あとを示すといわれています。アイヌは徐々に北に北に押しやられたという説が大半ですが、寒冷化に伴い降りてきたという説もありますので、言葉のつながりで見てみるとおもしろいかもしれません。
  今回調べていて思ったのですが、阿蘇沼である。阿蘇という地名はアイヌ語で爆裂火口の底、湖水あとを示すといわれています。アイヌは徐々に北に北に押しやられたという説が大半ですが、寒冷化に伴い降りてきたという説もありますので、言葉のつながりで見てみるとおもしろいかもしれません。

 自分的におもしろかったのですが、現在阿蘇沼というのは小さな枯れ池です。しかし、この話がされていた頃は、
まだ干拓がそう進んでおらず霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼といった巨大な沼沢でありました。その一帯の古名を阿蘇沼と
いったらしいのです。そう考えると、伝説を調べるのはフィールドワークも無論大切なのですが、机上の事もおろそかにしてはいけないと思いました。


 今回調べていて思ったのですが、阿蘇沼である。阿蘇という地名はアイヌ語で爆裂火口の底、湖水あとを示すといわれています。アイヌは徐々に北に北に押しやられたという説が大半ですが、寒冷化に伴い降りてきたという説もありますので、言葉のつながりで見てみるとおもしろいかもしれません。

 自分的におもしろかったのですが、現在阿蘇沼というのは小さな枯れ池です。しかし、この話がされていた頃は、まだ干拓がそう進んでおらず霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼といった巨大な沼沢でありました。その一帯の古名を阿蘇沼といったらしいのです。そう考えると、伝説を調べるのはフィールドワークも無論大切なのですが、机上の事もおろそかにしてはいけないと思いました。
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2004年12月01日

鬼籠もれりと言ふはまことか? 浅草姥が池に寄せて

 昔、浅茅ヶ原の一つ家に老婆と娘が住んでいました。娘が旅人を誘い、宿を貸します。そして石枕に寝かせ、寝ている間に頭を砕き、殺してしまったといいます。
  そして殺した人が九百九十九人を数えた時、若者が一つ家を訪れます。若者に心を奪われた娘は、身代わりとなり老婆に殺されます。老婆はその因果の恐ろしさに悔やみ、近くの池に身を投げました。しかし、罪の重さ故か死ぬことも許されず、老婆の体は竜に転じたといいます。そして沼は姥ヶ池と呼ばれるようになりました。


  これを聞いて思い出した事があります。
『陸奥の安達が原の黒塚に鬼籠もれりと言ふはまことか』
  平兼盛の歌にある黒塚です。
  安達が原の鬼の伝説はこの句が元になって成立したといわれてます。ただし鬼がいたかといえばそうではなく、同じ三十六歌仙である源重之は陸奥におり、娘がたくさんいたので、それを揶揄したとも言われています。これが元になって謡曲『黒塚』が作られたとされています。
  ただ、現在、安達が原の伝説が残る真弓山観世寺神亀3年に開かれた事になっております。そう考えると話は違ってきます。平兼盛はそれを踏まえた上で読んだ事になるのです。


 開基の話が先か、歌が先か、黒塚では分からないのです。さて、この浅草の姥ヶ池はどちらなのでしょうか。
  資料をあたったところ、白河院の記したものの中に石枕の記述があるということです。白河院の記述は平安時代の終わりとなります。その時点で黒塚の話は流布していたでしょう。
  それが鬼ではなく、竜に転じたという事になったのは、 浅草寺に関連しているようです。浅草寺の名は金龍山であり、その本尊が海から引き上げられた際に竜が降臨したという話が残っております。こんなことから仏法守護の一役として竜となったのではないでしょうか。
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2004年11月23日

かっぱ橋考

 都内にかっぱ橋というところあります。新堀川にかかる橋が地名になった場所で、浅草の近くにあたります。東京在住の人でもみんな知っているわけではありませんが、問屋街であります。扱っているのは食べ物関係の器具で、鍋やらフライパン、食器もですが、普通見かけないそばうちの道具や、石焼ビビンバ用のバーナーなどいろいろと売っております。
 さて、かっぱ橋というと何を思い出されます。合羽であるか、河童であるか。と思われませんでした。そんな迷ってしまうのなら漢字でずばり書いてしまえばいい。そう思われる方がいるかもしれませんが、そういうわけにはいかないのです。大きいところでは由来に2つ説があります。

 合羽説。
 その昔ある大名の下屋敷があり、内職で作った雨合羽を、天気の良い日にと干していたという、「雨合羽」からの説。

 河童説。こちらはやや詳しい目に。
 文化年間といいますから大よそ200年ほど前(振袖火事とか、山東京伝とか、甦りし蒼紅の刃とか)、合羽川太郎(合羽屋喜八)といわれる商人がいました。合羽を商って富を得た人なのですが、悩みがありました。雨というのは慈雨という言葉もあるようにありがたいものですが、江戸はもともとが埋立地ですから水はけが悪く、雨が降れば家が水に漬かり、洪水になるところです。川太郎が儲かれば儲かるだけ、苦労している人たちがいるのです。そこで川太郎は私財を投げ出して掘割工事を始めました。しかし、なかなか捗らない工事の様子を見ていた隅田川の河童達は、川太郎の善行に感動して夜な夜な工事を手伝ったそうです。また、川太郎が子供の合羽を助けた恩返しともいいます。そして工事は終わりました。その後、川太郎が亡くなり曹源寺ことかっぱ寺に墓所ができてから、河童が墓参りに訪れたといいます。河童を見た人は商いがうまくいくようになりました。

 さて、自分が回っていて思いついたのはこんな事でした。合羽を使う人間といえば、どんな人間でしょう。雨の中、歩き回るものですが雨が降っていなくても合羽が必要な職種。それは水にぬれざるを得ない場所で労働に従事している人間。水に関係する土木技術者ではないかと。では、素直にそう記せばいいと思われるかもしれませんが、できない理由があります。
 水利や治水といった事業は大きな事業ですが、その技術者は士農工商のどれに入ると思いますが。どこにも彼らは入ることはありませんでした。河原者という言葉をご存知ですか。河原は社会外の空間であり,堤上と河原のあいだには厳然たる差別が存在したのです。だから彼らに感謝しても、それを書く事はできません。だから河童という形で書き残したのではないでしょうか。

 もともと江戸というところは、『宵越しの金は持たない』とか、『火事と喧嘩は江戸の花』といいますが、打ち上げ花火的な価値観があります。理由は江戸は上方に比べて、地震や洪水といった災害が多く、たとえ自分がどう守っていてもいつ失せてしまうかもしれないのが前提にあります。瞬間の気風の好さが優先されます。
 そんな価値観の中で、川太郎がしたことはすごいことです。彼は今を含めて後の事も考えて工事を始めたのですから。
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2004年11月09日

岩田の刀自〜予言を残した仙人〜

 少年は呆然と立ち尽くしていた。目の前に広がるのは巨大な奇石と、その回りに転がる骸の原だった。帝の寵愛を得、国を乱した妖である九尾の狐。陰陽師阿部泰成に正体を見破られ、都を追われ落ちのびた先が、ここ那須の地であったのはどうだったのか。都人はいう。みちのく、既に人の領域でない場所に追い払えた。そう思っているのだから。だが、この地にも人は生きている。三浦介、上総介、派遣された二人の武士は、討ち取った事で武名を得たろう。だが、その手下として使われた自分はどうだ? 家族をみな失いこうしてただ一人になった。ここで武勇の手柄を立てれば、暮らしぶりも変わると夢想していたのが嘘のようだ。それは九尾の狐も同じことだ。栄華を極めながらここで死骸に囲まれ、石と化している。栄耀栄華とは、世界とはこんなものなのか。
 こんな体験をした少年は、俗世に望みを捨てました。山野に篭り、修行を始めたのです。そんな彼に一人の仙人が薬を飲ませました。薬を飲んだ彼は身も心も軽くなり、仙人と共に空を飛びました。それが終わった時、仙人は少年に語ります。「心を落ち着かせ、呼吸を静かにしておれば、これより九十年の後、両目が碧くなり、一千年で骨も代わり、不老を得るだろう」
 それから数百年、里見城に姿を見せた刀自は、若々しい容姿ながら、体を包む程長くなった髪やヒゲは金色に変わり、目は碧く変わり、仙人となった姿を見せたのです。
 ちなみに仙術では、外の薬に頼って長生きするのを外丹。自分の気を鍛え上げることで長命を得るのは内丹といいます。こうしてみると、岩田の刀自は外丹でまず力の扱いを知り、それから長い間修行をする事で、内丹を得て仙人になったのでしょう。

 とそれらしく書いておきながらなんですが、これは江戸時代の伽婢子第六巻にある長生の道士という作り話です。恐らく中国の小説を翻案したものと思うのですが、当時、里見家というのが、こういうものに語られるような家であったのが、なんとなく分かりますね。こういう土台があって、里見八犬伝とか、連想が働いたのかとも思います。
posted by 九十九屋さんた at 06:14| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月12日

柳田村の猿鬼

柳田村の猿鬼
 
 今回は特別編です。
 たいちさんの計画してくれたツアーにいってきたのですが、普通のレポではなんなので、メルマガで出しているモンスター紹介と同じ感じにしてみました。
 ちなみにメルマガはこちら
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000039780


 SS 穢れき姫神
 こうした衣装に身を固めるのは初めての事だった。
 神杉姫は自分の身体を包む、絹の服を見た。しっかりと織られ、美しく着飾られたその服は、人のためのものだろう。
 これが私。
 いつもならば身を包むのは純白。それをなくし、こうした艶やかなものをまとう。それもよごれのように思えたが、それ以上のものが確かにある。
 神であるその身でこうした事を考えた事はなかった。
 神杉姫が今まで願ったのはこの自分を祭ってくれるちいさな村が幸せである事だったのだから。だから、自分が華やかになることなど考えた事もなかった。
 猿鬼に傷を負わせながら逃げられた。数多の毒を集めて作り出した毒。千毒を用意したにも関わらずにだ。
 神杉姫は刀を隠し持った。三条宗近の名刀鬼切丸。これで次は必ず止めなくてはならない。もし、ここで傷が癒えて、逃げ出されれば同じ事が、ここで、また他の場所で起きる事になる。
 その袂の毒、血の穢れを、人がなしたこれが防いでくれる事を信じて。

猿鬼の伝承〜由来〜
 猿鬼はもともと大西山の釜ヶ谷といところに棲んでいたといいます。その地の鬼の頭である善重郎と共に過ごしていましたが、いうことを聞かなくなり、撃ち殺すと脅され逃げてきたといいます。逃げた猿鬼は柳田の村にある、岩井戸と呼ばれる洞窟に住み着き、仲間と共に暮らすようになりました。そこでの猿鬼の様子は、作物を荒らし、乱暴を働き、時には子供をさらって食ったといいます。その噂がとある年の神無月で行われる出雲での話題となりました。能登の事は能登の神に定めさせるのがいい。そういうことになり、能登一の神である気多大明神を大将に、三井の大幡神杉姫を副将に、猿鬼退治となりました。
 神々は岩井戸から出てきた猿鬼を狙って一斉に矢を放ちました。しかし、猿鬼の動きは速くあたらない上に、あたっても全身に漆を塗ったせいで滑りままなりません。そのうち猿鬼たちは矢を握って投げ返してくる始末です。神々は一度撤退します。
 神杉姫は、悩みながら、海岸を歩いています。そうすると波の音に言葉となって聞こえてきます。『白布干反に御身を隠して筒の矢に射させ給えよ神杉の姫』。それに神杉姫は従い、筒矢を作り、やじりには千毒と呼ばれる毒を塗ります。
 猿鬼たちは再び攻めてきた神々の矢を物ともしないでいましたが、そのうちに面倒くさくなったのか矢を握ります。そう筒矢は持ったとして中の矢そのものは速さを失わないのです。猿鬼の目はつぶれます。しめたと思ったのもつかの間、猿鬼は他の鬼たちに助けられ、岩井戸に逃げ込みます。
 そこで神々は一計を案じます。閉じた岩戸を開くには神代の頃から決まっている事があります。そう騒いで招きよせるのです。
 神杉姫は美女に姿を変え、他の神々も歌舞音曲で騒ぎ立てます。猿鬼はおびき出されて出てきます。姫は近づいてきた猿鬼を刀できりつけます。首を切られた猿鬼は川を黒く濁すほどの血を流しながら逃げていきますが、やがて息絶えました。

 その後は今でも残っており、名刀が猿鬼の首を討ち取ったあとには、真っ黒な血がずーっと川となって流れだしましたので「黒川」、矢が当たったところが「当目」。村人が猿鬼の霊をなぐさめるために建てた祠が、岩井戸神社となっております。



二人の神〜余談〜
 猿鬼退治に関して活躍する神の中で語られる二柱の神。神杉姫と気多大明神の正体はなんなのでしょうか。
 気多大明神は能登一の宮と呼ばれる由緒ある神社であり主に祭られている神はオオナムチ(大名持)です。この神は皆さんもご存知と思います因幡の白兎の主役となるいい神様です。出雲で生まれた彼はその後、黄泉の国に行きスサノオ(素戔嗚)の娘、スセリ(須勢理姫)を娶ります。そしてオオクニヌシ(大国主)となり葦原中国を支配するようになるのです。
 神杉姫は名で呼ばれる事が多いですが、女神もまた宮に祭られています。その宮は輪島市の三井大幡神杉伊豆牟姫神社(ひめ部分は当用漢字ではないので違う字です)です。祭神は足摩乳命、奇稲田姫となっています。このニ柱の女神はヤマタノオロチ退治の際にヒロインとなる女神とその母となります。神杉伊豆牟というのは、神杉を祭るという意味だそうなので、実在に神社にいた巫女が、伝説となり、神杉姫を形成したのかもしれません。猿鬼の一件があり、神杉姫は気多大明神の妻神ということになっております。
 また、能登一の宮は気多大明神ではなく、羽咋神社ともいわれています。祭られているのは仁天皇の第13皇子石衝別命です。彼は、ヤマトタケルに収斂していくであろう系譜、戦う皇子です。能登を平定し、悪毒鳥というものを退治したり、また犬をよく用いました。その流れで猿鬼を退治したという説もあります。そう考えると、皇子と巫女が協力して猿鬼を退治するという、どこかヒロイックな話になりますよね。


〜所感〜
 実は自分が回ってみて一番思い出したのは西遊記です。孫悟空は花果山水簾洞といわれる洞窟に篭り、仲間のサルを従え大暴れしました。水簾洞はその下は竜宮、すなわち海にまでつながっています。退治しに来るのは二郎真君。天帝の一族で、また犬を武器とします。そして多くの神兵を物ともしませんでした。加えて孫悟空の顔はこう表現されています雷公のような。雷様のことを思い出せば鬼を連想するのは難しくないと思います。加えて孫悟空もまた虎の皮を身につけています。それはどこか鬼を思い出させないでしょうか。

 最後にたいちさん、一緒にいったみなさんどうもありがとうございました。
posted by 九十九屋さんた at 21:05| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(2) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月04日

予言〜国府台の行方〜

 市川の国府台には里見公園があります。ここは様々な歴史の舞台となりました。由来である国府が置かれましたし、古墳もあります。また、源頼朝が陣を張った事も伝わっています。理由は地の利がいい為ですが、そうした場所は争いの中心になります。その中で、大きなものは国府台合戦があります。国府台での合戦は二度あり、二度目の戦いは、里見家と北条氏との戦いでした。
 戦いの数ヶ月前、一方の雄である里見義弘はある人物を里見城へ招いていました。客は岩田の刀自と呼ばれる老翁で、よく不思議な術を用い、数百年に渡って生きていた仙人でした。義弘は「私も仙術を学ぶ事ができるだろうか」と尋ねました。刀自の答えは「心を鎮め、女色を遠ざけ、欲を離れ、美食を楽しまず、何者にも心を動かさない事です」というものでした。義弘は「そんな風に生きても獣と同じだ。それで長生きしたところでしょうがない」と答え、美酒美食を奨めました。これで済めばよかったのですが、腰元が刀自の姿を笑いました。腹を立てたのか、刀自が「腰元達よ悔やむがいい」というと、娘であった腰元たちは途端に老女に変わりました。腰元達が泣いて頭を下げるとその姿は元に戻りました。ただ、それを見た義弘は刀自を殺そうと決意します。刀自はそれに気付き、「さて里見の武運も長くないな。今より五百月の後、必ず大きな災いにあうだろう」というと、それを書き残した紙を残し、消えてしまいました。五百月も続くならばと思いながら義弘が書面を見ると、月は箇とかかれており五箇月と読めました。そして五ヵ月後、国府台合戦が起こり、里見の没落が始まります。
 さて、仙術の事を語りながら意外と怒りっぽい刀自の正体は何者なのでしょうか?
posted by 九十九屋さんた at 21:56| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月18日

常雲寺の竜神さま

 市川の常雲寺には勝姫竜神があります。竜神は八部衆といわれる仏教の守護者ですから寺にあるのも不思議はないと思われるかもしれません。
 もともと勝姫竜神は『死にっ田』といわれる呪われた地を鎮めるべく作られました。『死にっ田』は作物を育てると家族や周りに不幸が起こった場所です。こうした呪われた田は多く存在していますが、その起源は謎が多いものです。しかし『死にっ田』は原因がはっきりしています。そこで一人の姫が殺されたのです。
 姫の名はいつの姫。滅びた小田原北条氏の姫でした。彼女は遺臣の野地兄弟に育てられていました。三人は現在の常雲寺に庵を作り、姫も名を勝と変え、暮らしていました。しかし、姫が成人した頃、何者かに殺されてしまったのです。それ以来その辺りは呪われた地となったのです。
 『死にっ田』に対して常雲寺の三十四代日英上人は穢れを祓うべく、祈祷を行いました。その時、勝姫の霊が現れ、「この場所の守りとして祭ってくれるのなら、お参りする人の悩みを救いましょう」と告げました。上人は池を作り、姫を勝姫竜神として祭りました。
 何故、姫は竜神として祭られたのでしょう。まず地理の理由。常雲寺を含め、市川近辺は川や海など水利に関するものが多い事。そう考えると竜神はうってつけですね。
 そして勝姫の出身です。北条氏の家紋は三つ鱗紋ですがそれには由来があります。初代の北条時政が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願した時、美女に変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えた事を記念しているのです。つまり勝姫は鱗の一族から守護を受けた者の末裔だったのです。だからこそ死後、竜神として祭られたのではないでしょうか。
ちなみに歌舞伎においてもこの鱗紋は竜神=魔の属性として語られています。歌舞伎を見たときには是非見てみてください。
posted by 九十九屋さんた at 08:19| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月11日

船橋1 女化け神社の狐

  船橋に女化神社という神社があります。名前だけ聞くと?っとなる方も多いと思います。           
  その名前の由来にはこんな話が伝わっています。                             
  昔、神社には年若い神主がいました。彼はまじめでありましたが、貧しく、食べ物もまかなう事ができず、回りの人々の好意で生きていました。                                      
  ある日の事、一人の女性が神社に現れ、神主の女房になりました。彼女は働き者で、神社は豊かになりました。
  幸せな日々が続くと思われたある日の昼下がり。神主は見てしまったのです。仕事で疲れて眠っている彼女から生える黄色い尾を。                                            
  彼女はそれに気付き狐の正体を見せると野に消えていったのです。しかし彼女のお陰で豊かになったことを記念し、女化け神社となりました。                                       
  もっとも実際は女化稲荷というのが竜ヶ崎市の方に伝わっており、その伝説が地元の民話として伝わってしまったもので、これは神主と狐の間に子供ができているところが違っています。                   
  このような狐が嫁入りして福をもたらす話は各地に伝わっています。もっとも有名なのは安倍晴明ですね。彼の母は信田の森の狐で、婚約者に成り代わり妻となる話です。                          
  実はこの話そのものは、平安時代の『日本霊異記』に記されている「狐を妻として子を産ませた話」と同じものです。奈良時代に生まれたこの話は、謎の女が妻になり、裕福になるも、正体がばれて消えるという骨格は同じです。ただ、他の話と一番の違いがそこに狐という言葉の由来が記されている所です。                
  他の話では「化生のものは一度姿を変えると二度と姿を見せぬことはできませぬ」と去っていくのに、こちらの狐は旦那さんの「いつでもきて泊まりなさい」という言葉に、夜は戻ってきたのです。それを見てその子は岐都禰(来つ寝)と名づけました。そしてその子の姓は狐直(きつねのあたえ)となり、それが狐の語源になったのです。
posted by 九十九屋さんた at 09:13| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする