2008年08月20日

鴨と竜 生ける彫刻 左甚五郎

 梅雨の時期はうっとうしいですが、雨が降らなければ降らないで、大変な事になります。関東はどちらかというと水が豊富で、日照りに不作なしといいます。割合水が豊富で、加えてため池などの技術もあって、農業の為の水を確保できたからです。ところがそのような水源が荒らされたらどうでしょう。

 ある大きな森には農業に使われるわき水を池にして、農業の為に使っていました。池がある日の事、干上がっていました。水は出ているのですが、今までたまっていた分を使われてしまったのです。暫くすると水がたまりまた池になりましたが、また水が無くなってしまいました。そんな時は近くの寺の山門まで必ず水の痕がついていました。村人が住職
に相談すると、それは山門にいる竜の彫り物の仕業だとなりました。そこで護摩を焚き、少し尾を切りました。それから水が盗まれることはなくなったといいます。

 この話は船橋の観行院に伝わる話です。このように、彫像が生き物の如く動いてしまうという話は結構知られていて、名工と組み合わさっている場合が多々あります。流山の東福寺の鴨もそのような怪異をなしたといわれています。

 東福寺も伝承のあるお寺なので、今後取り上げたいと思いますが、今回は山門のお話です。山門は、日光東照宮の造営された一部といわれています。その山門の鴨居に彫刻された鴨は「目つぶしの鴨」と呼ばれ、目が潰されています。
 春の鰭ヶ崎、田植えが行われています。
 綺麗に植えられた苗は、豊かな実りをもたらすと思われました。ところが翌日になると、苗は荒らされていました。仕方なく、また植え直しましたが、また荒らされてしまいます。結局、村人は、見張りをたてることにしました。見張っていると、現れたのは一羽の鴨でした。追っていくと、東福寺の方に向かい鴨は消えてしまいきます。
 村人たちは鴨を探します。生きている鴨の姿はありません。村人の一人が東福寺に着くと声をあげます。山門の鴨居に彫刻された鴨に、泥がたっぷりとついています。その事を和尚さんに相談すると、鴨の目を潰すことになりました。それ以来、鴨の目はふさがったままなのです。
 
 潰す方法ですが、資料によって、目に釘を打ち付けたという話や、ただ潰したとして上から何か塗ったような感じに記してあるものもあります。自分目が悪く、実際どう潰されているかよく見えないので、ご存じの方は教えていただければ幸いです。
 どうして、この鴨が動いたかというと、名工左甚五郎の作であったからです。そう東福寺の山門は、甚五郎の関わった日光東照宮の一部だったのです。

 左甚五郎作のものが動いた話は各地に伝わっています。東福寺は鴨ですので、村人は大いに迷惑でしたが、まだ良かったといえます。甚五郎の伝説の中には、竜や、虎が動き出したというのもあります。そうなると被害の大きさがかなりのものになりますから。

 まず、どうして左甚五郎かというと、このような話があります。
 飛騨で生まれた甚五郎は都に上がってきました。そして都でも職人として名をあげていきます。
 ある日、甚五郎は竜の彫り物を作る仕事を請け負いました。しかし、思うように竜は彫れません。そこで嵯峨法輪寺の虚空蔵菩薩に願をかけました。それは生きた本当の竜を見たいという願いでした。甚五郎が寺の裏山の蛇谷に正座して祈ったところ、満願の日に竜が現れました。まぶしくて正面からそれを見ると眼が潰れるというので、甚五郎は左の眼
を覆ってこれを見ることに成功した。以後、甚五郎は左目の甚五郎・左甚五郎と呼ばれるようになったのだといいます。
 その後、彼は全国各地を回り各地で様々な彫刻を残します。有名な物は日光東照宮にある『眠り猫』ですが、鼠や猫、虎に竜、蛇。そうしたものの多くを今でも見ることができます。
 また、彼の伝説は平安時代から江戸時代に渡り、作品と呼ばれるものも非常に多いからです。
 加えて左甚五郎の名は、江戸時代になり落語や浪曲で語られ、多くの場所で知られるようになりました。
 
 さて、戦国時代が終わった江戸時代初期、各地で多くのすばらしい建築が作られました。すばらしい彫刻ながら、誰が作ったか解らない場合、誰ともなく甚五郎の作品というようになって、様々な伝説が残ったと思われます。そういう点では前、話しました妖怪の誕生に似ていますね。


 

posted by 九十九屋さんた at 19:51| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック